辻秀一。「神の囁きと出会いが今の自分を創っている。あまり将来何をやりたいだと
か、大きな夢に溢れてここに行き着いたんじゃない。今このときに集中っていう感じで、できることをやっていましたね。」と自分の半生を振り返った。
スポーツが大好きだった少年時代。勉強とスポーツの両立に大変だった青春時代。医者という仕事をこなす中で葛藤を感じた青年期を経たからこそ、今がある。
現在はスポーツドクター・内科医・バスケ監督・作家・NPOエミネクロスの代表・講演家・メンタルトレーナー・時にはバスケもやる、と様々な顔を持つ辻秀一は現在進行形で今を生きている。
医者しか仕事を知らない子どもが憧れたオリンピック。「将来はオリンピックに出ることが僕の夢でしたね。」と語る辻はとにかくスポーツが大好きで、得意な少年だった。小学校時代は剣道。

中学校からは、剣道部がなかったのでバスケ部に入るものの、受験校という世界の中ではスポーツ一筋というわけにいかなかった。
「クラブ活動は中高一貫なので、とても盛んでしたけど受験校ですからレベルが低かった。県大会1回戦に行けばいいっていうようなチームでしたね。ただ、バスケットボールはとにかく大好きでした。」と当時を振り替える。
高3の秋にエネルギー関係の研究職を目指したものの、『頭だけで勝負するととても厳しいな』と現実的に考え、辻青年が選んだのは医学部。
辻の家は代々親戚が医者の家系だった。辻で14代目。
ただ、だからといって医者になれと言われたわけでも、憧れていたわけでもないのが不思議なところである。辻青年は医者という職業以外をあまり知らずに生きてきたので、単に次の選択肢が余ってなかったのである。
バスケがしたい。そして、大学進学を決めた時に辻青年の胸にぱっと浮かんだ思いは『バスケをしたい』という気持ちだった。高校時代のフラストレーションだったスポーツを追及したいという気持ちを大学では感じたくないと思い、大学はスポーツと勉強の両立を基準に選んで条件のいい北海道大学を選ぶ。「医学部に行っても、バスケをやってインカレに出るとか、全国大会で何かできるとかいうような環境に行きたいと思った。そうすると、単科の医科大学に行ったらだめじゃない。
多分インカレ出られないから。それでは夢が破られるので、キャンパスに体育館が併設されている大学で、インカレに出られる大学。ただ、結局入っても3軍はいやだなあと思ったから。1軍か2軍で試合に出られるようなところで北大に行こうかなって思った。おかげで、医学部のほうの大会で全国に3回くらい優勝して、インカレにも出させてもらった。バスケット三昧でしたねえ」
辻は北海道大学を卒業して、慶應の内科局の入局試験を受ける。
そして、慶応内科局と川崎市立病院で二年ずつ研修を行った。「整形外科医は嫌だ
った。スポーツはいったんそこで諦め、内科医になろうと思って内科医になって、その4年間はめったに家に帰れないで、当直室で死んだように寝ているっていう、それこそ『ブラックジャックによろしく』のような生活をしていましたね。」
しかし、辻は、研修も残すところあと半年とする頃に、1回目の『神の囁き』を聞く。
今を生きる。『お前が本当にやりたいことはなんなんだ?』
辻自身は神の囁きと言っているが、それは常に今と向き合って真剣に生きてきたからこそ、こぼれた自らの心の囁きなのかもしれない。
「かなり一生懸命やって、論文も書いて学会発表もして、とても優秀な内科医を目指してたわけですけど、一番の疑問はね、医者が人に奉仕をするっていうのが根底にあるといいながら、徹夜が3日続いて夜中に来た患者さんに文句を言っている自分がいたんだよ。まあ、言ってしまいますよね。徹夜しても昼は普通どおりに仕事をしているわけだから、医者って。後、仕事上言葉を繕わなければいけないことが多かったんです。
んで、どうも自分の哲学に合わせにくいなあっていう感覚があった。そして、神の囁きがあって。お前好きなものは何だ?って。そしたら一発でスポーツだって。子供の頃の夢を忘れていたけ
ど、やっぱオリンピックだったしなあ、スポーツしかないなと。ただ、ちょうど結婚していた
し、家内に言ったら今更スポーツでどうするのよ。と言われたけどね。」
スポーツしかないと思った矢先多くの不思議な出来事が舞い降りてくる。
それも続け様に。
大学時代の先輩の電話で日本バスケットボール協会の医科学研究部へ、顔を出すようになる。当時、日本リーグ・バレーボールの試合中にフロー・ハイマン選手が突然死し
た。その出来事を境にバスケを含む様々なスポーツの世界で、メディカルチェック・救護体制の整備が叫ばれるようになる。そしてバスケ好きの内科医であった辻秀一に白羽の矢が立った。そして辻はそれをきっかけにバスケットボール協会の仕事を始める。

『バスケと医療って実際に結びつくっていうのが現実にあるんだなって感じでした。平日は内科医をして、土日に協会を手伝う。その延長線上でジャパンについていってユニバーシアードにも行ったし、アジア大会も行ったし、オリンピックは行けてないけど、ほぼ俺の夢は果たせたんですね。ただメディカルチェックも大会救護もチーム帯同も、なんか俺の本当にやりたいこととは違う感じがしたんだよ。そんなことを僕はスポーツと接点ができたことで感じられた。』
そんな時に、再び転機が訪れる。
慶應義塾大学に、内科のドクターによるスポーツ医学の研究室が立ち上がる。
そこで言われた言葉は、「これからは内科医がスポーツ医学をやる時代が来る。生活習慣病が増えてくるから、内科医がライフスタイルマネジメントをやるんだ。」
辻は協会の仕事をしていて、感じた疑問の答えがそこにあるのかもしれないと思い、その研究室にちょっとずつ出入りするようになった。
平日は、内科医。休日は、協会の仕事や遠征。その合間を縫ってのスポーツ医学
の勉強。
また、当時骨粗鬆症が世間で広まり、リュウマチの研究をしていた辻は、骨と運動機能の権威ということで、骨粗鬆症の運動療法における一躍大家になった。
辻の生活は、その後約一年間このような形で忙しくなる。しかし、その一方で、辻自身の中で疑問は膨らんでいく。
『俺のやっていることなんかちゃうな?このままでいいのか?いやよくない。』
何をしていいのかわからないから、わからないから。
とりあえず、バスケをしたんです。
2回目の神のお告げで、辻は内科医をやめるという思い切った決断をした。
しかし、日吉のキャンパスのスポーツ医学の研究室に有給のポジションは無かった。
辻には家族がいた。このままでは、生活が出来ない。
それでも自分の思ったことをやる為に、アルバイトをしながら研究室に通う日々。
多忙な毎日を繰り返すうちに、研究室の中で有給としてお金が貰えるようになった。
そんな折、慶應の研究室にいた辻に、慶應のバスケットボール部が、チームドクターを探しているという話が舞い込んできた。そこから新たな人生が始まる。
『体育会のバスケット部のチームドクターっていうのになってしまったわけです。けど、僕が実際何ができるかっていうと、チームについて何かやれたっていうのは今までない。骨粗鬆症の内科のマネジメントで、中高年女性たち相手の仕事と、協会でトップアスリートの仕事をやっていたけど、チームづくりまでやってないですからね。
救護とか、医療の活動しかやってなかったので、そこで初めてチームに入って、何をしていいのかわからなかった。だから、とりあえずバスケをしたんです。練習を一緒にすることが一番できたから。当時慶應は2部、僕もその当時30。30だからまだ結構やれたかな。僕はとにかく練習に行きました。夕方いつも4時から7時くらいまで、毎日練習行ったし、選手と一緒にモップかけたりもした。だから本当に一緒にバスケやっていたって感じです。みんなに変わっていますねえ、みたいに言われたけど、できることはそれしかなかったから。そしたら本当にバスケ好きなんだなってのは選手たちに伝わったみたいですね。』
選手と一緒にプレーしていくうちに、段々と自分が何を還元したらいいのかなっていう話になった。最初に目をつけたのは、栄養。次にトレーニングのことをドクターとしてか、一緒にプレーするものとしてかアドバイスするようになる。その後慶応の豊富な施設を使ってメディカルチェックを始めるのだが、その頃にはバスケ部だけでなく、慶應の体育会を中心にいろんなチームを辻はサポートするようになっていた。
そんな折に、また神の声が聞こえる。
何をするにしても心。『自分が担当サポートしているクライアントやチーム
は、慶應っていう名前や大学にある豊富な施設があるってことで来てんじゃねえか?』
辻は自らの存在価値に疑問を持った。そして、また新たな決意をする。
『俺がいればできることがしたい!!』
「それが神の声として聞こえている時に、僕に大きなメッセージがあったのは、体育会のどのチームを見ても、そして、骨粗鬆症をはじめどんな人たちのライフスタイルマネジメントをするにしても、最大のキーワードはメンタルだったんです。心にアプローチしない限
り、どっちも成功はできない。何をするにしても心だと思ったんです。」
そして、心について勉強するべく辻は、日本のスポーツ心理学会に行った。
しかし、そこで見たものは研究結果という堅い活動だった。
「俺の求めていることとは違う。ぜんぜん実践的じゃない。」
そう思い、辻は渡米して、本場アメリカの心理学会を見に行った。
『アメリカのスポーツ医学の学会に出てきたけど、アメリカの応用スポーツ心理学会ってのに出たらもう目からウロコ。スポーツのモノの考え方を日常に活かすことっていうのが応用スポーツ心理学会だったのです。これはとてもおもしろいなあと、医学のことをベースにして色んなことを知っているから、それを基にして僕の売りはこれにするべきだと思ったのね。
そしたら僕さえいれば役に立つしな!その知識があれば。だから、僕のクライアントは、それこそスポーツ選手から音楽家まで誰でもOK。僕の持ってるノウハウでその人の持ってる輝きを作れることができるから。これだと思った。』
それをさらに深めようと思った辻は、慶應でのことを思い出す。
慶應時代に、心のことを選手などに勧める題材として使用したものがあった。
それが、井上雄彦が描く超人気バスケ漫画『スラムダンク』であった。
『スラムダンクの漫画をコピーしたりしていろんな選手やいろんなチームに配ってメンタルトレーニングってのを教えて回っていたんです。もっと多くの人にも読んでもらえるよう公にしたいなと思って、バスケットボールマガジンにこんなアイディアでこんな連載したいんで井上先生を紹介してくださいって言った。』
その出会いがその後の人生を大きく変えるのである。
辻さんの人生を変えた出会い。それは井上雄彦氏との出会い。それは辻さんの何を変えたのか。次回後編へ続く。お楽しみに!
エミネクロス・グループ→
http://www.eminecross.com/
篠 雄也、伊藤 祐己