SEEDS-net  vol.44
2006年1月 30日発行


祭りはスポーツなのか??
スポーツの語源は「非日常」という意味のデスポルトという説がありますが、 スポーツってどこまでをいうんでしょうか??
今回の目玉記事は、アジアリーグ事務局の山田さんインタビュー!! オリンピック、W杯の裏には、必ず縁の下の力持ちがいるのです!! お楽しみ下さい。

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<もくじ>

ひとから見るスポーツ アジアリーグ事務局 山田亨さん
短期連載企画 ユニサイクルと安藤勇太
マイレポート 第6回アイク生原&ピーター・オマリー記念講座
マイレコメン MAGNUM SOCCER

++ ひとから見るスポーツ ++ アジアリーグ事務局 山田亨さん

山田亨
「自分はまだ何かを成し遂げたわけではない」と語る山田氏。大学時代ふとしたきっかけで、垣間見たスポーツビジネスの世界。そしてその世界に飛び込んだ。長野五輪、W杯。こうした日本のスポーツブームを陰で支えてきた山田氏。そして、今現在トップリーグ機構の一つである、アジアリーグアイスホッケーを事務局として支えている。

ブラウン管越しのスポーツに憧れて。

小学校では野球、中学からはサッカーをした山田氏。
高校時代は地域ではそこそこいいところまでいくが、全国区の大会には出られなかったという。それはきっと多くの学生が経験したことであり、スポーツを行う学生のマジョリティといってもおかしくないだろう。そして、多くの学生がそうするように当時Jリーグも存在しなかった日本において、大学になってもスポーツ漬けになることに疑問を感じ、競技者としてのキャリアを終えた。この体育会系とも言えないであろう、山田氏が今も尚スポーツの世界にいる理由。それはひとえにスポーツが好きだったからである。


「スポーツに関しては小さい頃から非常にスポーツ好きで、やるのも当然好きだったんですが、観るっていうことにも非常に興味がありました。僕らが小学生のころにはプロ野球しかテレビ放送されてなかった時代で野球を観るっていうのは当たり前だったんですが、たまにNHKで五カ国対抗ラグビーとか、そういったNHKでたまにやっている日本ではメジャーでないスポーツを観るのが非常に好きな子どもでした。高校時代もサッカーをやりながらも、NBAだとかメジャーリーグなどの海外のスポーツっていうのは非常に興味もありましたし、当然サッカーという部分でいえばダイヤモンドサッカーっていうのがずっと前からありましたけれども、ああいったものを中心に観るって部分では僕の中では海外スポーツが中心にありましたね」後に、将軍と呼ばれるプラティニや、現に日本代表監督ジーコと同じピッチに立つとはこの時は思ってもいなかった。当時の山田氏はただただ漠然とスポーツが好きだったのである。

きっかけは…世界陸上!!
好機が巡ってきた神奈川大学時代。知り合いの紹介で、世界陸上東京大会の手伝いをする。手伝いと言っても、仕事は末端の大会関係者の運転手。ただ、それがきっかけとなって少年サッカー大会の運営に関わることになった。スポーツが好きで、漠然とながらも将来スポーツで仕事をしたいと感じていた山田氏にはチャンスだった。そしてそこで、現在の下地とも言えるスポーツイベントの運営や、演出のノウハウや人脈を作っていった。

「大学はやりたいことがあって神奈川大学に行ったわけではないです。ホントに今の皆さんとくらべると将来的な構想は全く皆無といってもいいくらいにないまま大学に進んでいましたね。ただ、漠然と自分はスポーツが好きで、観るのもやるのも好きだから仕事がスポーツに関わることだったらいいなと思っていただけで。きっかけは世界陸上のアルバイトだったんですけども、その後にやった少年サッカー大会を準備して実際に現場で運営を経験をしたから、自分が関わるのはここだなってのは明確になったんだ思いますね。もともとスポーツが好きだし、たまたま自分がやっていたサッカーのつながりもあったんで、世界陸上の次のアルバイトもつながっていって、それが今に至るのかなと思います。だからホントにこの職業に小さい頃から就きたいと思って到達したっていうわけじゃなくて、たまたまそのきっかけがあって、今となってはそれが自分にとってベストの選択だったかどうかは分からないけれども、この業界のやり方とか雰囲気とかがマッチしたっていうのがあるのかなと思いますね。僕は皆さんがうらやましくてたまらないっていうのがありますね。ちゃんと明確な目標をもってこういったことがやりたいから、この大学のこの学部に入ったっていう、僕とはホントに全然違うというか、時代的なものもあったのかもしれないですけど。僕の場合はたまたま経験してうまくいったと言うか(笑)」

スポーツバブルの光と影
Jリーグ開幕に始まり、冬季オリンピック、W杯と世界的にも大規模なスポーツイベントがここ10年あまりで起こっている。日本は今思えば空前のスポーツバブルなのだ。無論、それの実態のない泡は今も続いている。唯一つ違うのは、以前よりも着実に実態に近づいてきていることだ。山田氏は、当然その手始めとなる長野オリンピックに関わる。

「W杯とかオリンピックをやる時って必ずその前年にプレ大会をやるんです。02年W杯で言えばコンフェデレーションズカップがそれに当たります。長野オリンピックも各競技プレ大会っていうのをやるんですけれども、僕が関わったのは白馬村だったんですね。白馬村がこれからオリンピックとそのプレ大会を迎えるのに当たって、運営のプロが必要だということで。当然、その時にはスポンサーをつけるだとか全体の運営のプロデュースに関しては広告代理店が入っていましたけれど、もっと末端の観客や地域とより近い場所にデサントのつながりで入りました。95年から初めて白馬に行って、スキー界のことなんて全くわからなかったんですけれども、ダウンヒルのW杯運営事務局の一人として関ったのが白馬での最初の仕事でしたね。一番最初にやった仕事は確かプログラム制作。今はデータ化されているので結構簡単にできちゃいますけど、昔は広告を出してもらう際にもデータじゃないスポンサーさんから直接届くものがあって、それを集めて東京のチームに届けたりとかしていました」

「全体から見れば小さな仕事なんですけれども、かなり忙しく充実した中で進められたかなと思います。その後、97年のプレイベントがやってきた白馬村の場合は競技的にはクロスカントリー、コンバインド、ジャンプ、アルペンでいうとスピード系の4つのおおきな種目をやるところだったので、白馬村っていうのは長野オリンピックの中でもかなり競技数が多く、中心地でした。97年のプレイベントの時にやった仕事っていうのはグッズの販売でしたね。冬シーズンの間ずっとW杯っていうものが白馬村にはあったんでグッズといっても会場で販売するものだけじゃなくて、土産物屋などに電話して営業したりとかしまし
たね。ホント事務局仕事って色んな雑務がいっぱいあるんですけれども、そういった雑務をこなしながら1つ与えられた仕事がそのグッズ販売でした。僕の仕事は企画の時点では関わってなくて既にできていたものいかに売るかっていう部分しかなかったんですけれども、それでもやっぱりW杯なので海外とのやりとりだとか、1社1億くらいのスポンサーがついてるような大会でしたから大きなお金が動く中で仕事ができたっていうのは非常に良い経験だったかなって思ってます」

事務局畑でつかまえて

満を持して迎えた、長野オリンピック。しかし、そこで山田氏が入ったのは大会運営ではなく、白馬村実行委員会だった。私を含めた多くの学生はスポーツビジネスと言うと、すぐにW杯やオリンピックなどの華やかなビッグイベントを思い浮かべるかもしれない。
しかし、その中には表には出ないが、重要な仕事がいくつもある。何が欠けてもダメなのだ。裏表全ての仕事が成功して初めて、そのイベントは完成する。

「98年に長野オリンピックの本番を迎えるわけなんですけれども、長野オリンピックのときに実は僕が入ったポジションっていうのは、長野オリンピックを運営するための組織ではなくて「白馬村実行委員会」っていうところに入って、来てくれたお客さんをいかに盛り上げるかっていう仕事をしていました」
「もうその時には白馬村でアパートも借りて、白馬で生活する時間のほうが圧倒的に長かったですね。で、白馬村実行委員会でやった仕事っていうのは、スキー場には途中途中にレストランみたいなのがあるじゃないですか。そのレストランの窓際の一角を白馬村が完全貸切にして、白馬村実行委員会という組織に対してスポンサードしてくれているお客さんにそこで観てもらうっていう企画をしたり、期間中はスノードームっていうでっかいテントを村の中心地に立てて、郷土芸能だとかコンサート、トークショーをしたり、日本人選手が白馬で金メダルをとったら夜には花火を上げていたんです。期間中はそんな風に、昼は競技、夜はイベントという日が毎日のようにあったんですけれども、そのイベントの進行をやったりしていましたね。オリンピック後も、サマージャンプの大会など2、3年ほど白馬村と関わっていました。仕事の期間も長く、大会期間中は特に忙しくて大変でしたが、とても充実した日々を過ごすことができました」

と、前半はここまで。後半は山田さんと2002年日韓W杯の話や、今現在のアイスホッケーの仕事の話が盛りだくさん!乞うご期待!!

※オリンピック期間中やその後の国際大会で白馬の夜空に上がった花火のキュー出しは、 ほぼ山田氏が担当

篠雄也、小池絵里花




+ 短期連載企画 + ユニサイクルと安藤勇太
SOJ安藤 勇太 ユニサイクル 一輪車100mスプリント世界記録達成特別短期連載A


≫≫ 最善を尽くす

本番の日は、2005年ももう終わりに差し掛かろうとしていた頃だった。最初に記録挑戦の話が来てからひと月強である。決して長い準備期間ではなかったが、安藤は最善を尽くそうと、毎日毎日ユニサイクル(=一輪車)に乗り続けた。

本番の前日に会場入りする予定だったが、その前に、安藤は所沢にある大学のキャンパスに向かった。いつも診てもらっている大学院生のトレーナーに会うためである。安藤や僕らが通う早稲田大学には、「スポーツ医科学クリニック」なるものがある。スポーツ医科学に特化した研究を活かして、実践の場を提供し専門家を養成するとともに、体育会やスポーツ科学部の学生のサポートをしている。安藤も大学に通うときには一人のアスリートとしてクリニックに足を運んでいた。

「結局トレーナーさんの事情もあって会場入りするのは1、2時間遅れたけど、それが原因でストレスになることはまったくなかった。結局会場でも予定が遅れていたし、まだ本番ではなく、コースの設営に立ち会うっていう話だったから、そこは優先するべきだと思った。最後に自分を診てもらうというのは最善を尽くすことだったし、妥協したくなかった」


≫≫ 待つだけ

夕方に会場入りし、夜はテレビ局が用意したホテルに泊まった。ディレクターやAD達も安藤を1人の世界記録に挑戦するスポーツ選手として、しっかりと配慮してくれていた。

「前夜だったけど、特に落ち着かないっていうことはなかった。ゆっくり過ごしていた。気になってしまったことといえば、記録挑戦の前後にあるタレントの方たちとのトークの内容だった。いったいどんなことしゃべったらいいんだろうって(笑)」

当日は昼前に会場入りし、僕も何か手伝うことがあればと会場に入ったのだが、普段とあまり変わらぬ安藤の姿に逆に驚きもしていた。カメラリハーサルで、一度本番のコースを走る。フライング気味ではあったが、非公式ながら世界記録を超えるタイムが出たのである。

「ベストの走りに持っていったわけでもないし、それができたわけでもなかったけど、自分としてはコースや雰囲気がいつもの練習場や大会とは違うなかで、あれだけのタイムを出せたことは『なかなか悪くない』って思えた」

昼1時前にカメラリハーサルを行ったあと、本番までは収録時間が押していたのもあり、本番は結局夜10時頃となってしまった。その間には、他の記録挑戦者が記録を達成していた。また安藤もその横で土浦から応援に駆けつけてくれた友人の選手とともにウォーミングアップをした。この長い待ち時間のあいだにいろいろと考えることがあったのではないかと思ったが、あまり考え過ぎないようにしていたという。いつもは一輪車界の将来まで考えて行動している安藤だが、この日はそこまで大きなことを考えず、目の前にあることだけに集中しきっていた。

「今はとにかく、目の前にあることに最善を尽くすっていうことしか考えてなかった。もう、待ってるだけという感じ。気持ちとしては、『さあ、走るぞ!』ではなく、できるだけギリギリまでリラックスしようと思っていたし、それができた。そこに入りすぎてはいけないと思っていた」


≫≫ ゴール後の表情

そして、とうとう本番を迎えた。スタート前のトークでは自信のほどを聞かれ、「なければやらないですよ」という強気の言葉を発していた。トークのあいだは特に何も考えていたわけではなかったというから、気持ちも高すぎず低すぎずのちょうどいいレベルに達していたのだろう。

スタートラインに向かうと、ライトの光や実況の声による、異様な雰囲気がそこにはあった。いつも走っている練習場や競技場とはまったく違う雰囲気である。そして約12秒後、彼は司会タレントたちの待つところへと戻ってきた。ゴール後、タイムが表示されるまで、少し時間があったが、彼はゴールした直後から満足げな表情を浮かべていた。

『タイムは……11秒69!』

フライング気味のリハーサル時の走りよりも、さらに大幅に記録を縮めての記録である。電光掲示板にタイムが表示され、安藤は人差指を天高く上げ、満面の笑みを浮かべていた。

「タイムを見なくても自分の納得いく走りができていた。満足感はあった。タイムを見たときは、11秒台なんて、出せたらいいなと思っていたぐらいだったし、信じられなかった。と同時に、自分の可能性を感じた」

収録後、家族に電話をする安藤の姿があった。ギネス記録達成やTV収録という非日常からのプレッシャーは相当のものだったに違いない。しかし、それらから開放された今、家族という日常と接することで、達成直後とは違い、ふつふつと湧き出てくるような幸福の実感をかみ締めている素顔の安藤勇太がいた。

「義務感もあったし、もう本当に終わった後は安心感の方が大きかった。テレビで挑戦していて、全国の一輪車をやっている人たちのことも考えながら練習してきていたから、「絶対に記録を出さなきゃ」っていう義務感もあったし」


≫≫ 一輪車を広げる

実は放送では使われてはいないのだが、安藤はゴール後に司会のタレント達に向かって、この記録達成が一輪車をやる将来の子供たちのためになれば、と語っている。それほどまでに一輪車の普及をしたいという思いは強い。

「一輪車って、イメージとしては小学生がやっているスポーツ。中学、高校になっても胸を張ってやれるようにも、自分がこうやって競技としての一輪車を普及していくのは非常に大事なこと。トップ選手がいるということが、社会に競技を認めてもらうことにつながっていく。

そして、今まではキャッチボールなんかが親子でやるスポーツだったけど、今の親の世代は小さい頃に一輪車をやった経験もあるだろうし、ファミリースポーツとしても広がっていってくれたらいい。

ストリート・フリースタイルでのパフォーマンスもどんどんやっていって、いろんな一輪車の姿を見せていけたらいいと思っている」

生涯スポーツとして、競技スポーツとして、そしてエンタテイメントとしてさまざまな可能性のあるユニサイクルというスポーツ、そして安藤勇太にも注目してほしい。


安藤勇太公式ホームページ:http//yuta-ando.com/

伊藤 祐己


+ マイレポート +  第6回アイク生原&ピーター・オマリー記念講座
現楽天監督の野村克也以来のプレイング・マネージャーに就任した古田敦也(東京ヤクルトスワローズ)が早稲田の杜にやってきた。テレビやスポーツ新聞でも取り上げられたが、新ユニフォームのことや、メジャー移籍関連といった裏話が満載だった今回の講座。ちなみに、この講座は日米野球の架け橋となった故・アイク生原氏の友人であるピーター・オマリー氏のスポーツ科学部への寄付から始まった講座である。

常に最善になることを考え、それを実際に行動に移すこと。書くことはとても簡単であるが、行動するには、かなりの勇気が必要であろう。古田は他の誰よりも大きなものを背負い続け、行動してきた。その中で、生半可に考えているはずがない。古田なら、大きなことを考えているはず、実現してくれるはず。そんな期待を持ってしまうのは、何も偶然ではない。古田は今回の講座で「ファンのために」という言葉を何度も口にした。ファンのために球団改革、戦力補強、地域密着化。ファンのために野球を面白くする。
「情けは人のためにならず」その真意は、めぐりめぐって自分の身に返ってくる、ということ。古田はその意味をしっかりと理解している。ファンがいるからこそ、プロ野球選手という仕事が成り立っているのだから。

古田の目は、何も野球だけを見ていない。「学校という枠にとらわれず、大きなコミュニティーという場で、いろいろなスポーツが出来るようになる。それらを通して、子どもたちの可能性を広げていきたい。」このような言葉は、スポーツ全体を変えようとする人々からすると当たり前の話である。しかし、これから野球界を改革していこうとする人、影響力の強い人の口から聞くことが出来ることは、とてもうれしいことである。最も、日本で普及していながらも、敷居が高く、旧体質な野球界。そこから、スポーツ界を変えようとする流れが生まれれば、大きな流れになるはずだ。将来、スポーツがもっと盛んになることで、よりよい日本になることが古田には見えている。そして、それに追随する人たちと、この日に出会ったのである。

「改革」それは、ぶっ壊すだけが改革ではない。聞こえがいいことを並べても、現実が変わらなければ意味がない。守るべき伝統は守り、変えるべき悪しき習慣は変えること、それが本当の「改革」。一歩一歩、確実に足を進める。勝つために最善の対応をする。古田は、このように人生を歩んできた。そのやり方は今も変わらない。これが「改革者」古田の勝利の方程式だから。



西山 裕貴

+ マイレコメン + MAGNUM SOCCER
MAGNUM SOCCER PHAIDON社

サッカーは世界中で愛されているスポーツと言われる。現に国際サッカー連盟の加盟国数はオリンピックや国連のそれよりも多い。それでも“サッカー”とはテレビで放送されるJリーグや欧州サッカーのように「華々しいサッカー」をまず思い浮かべるのではないだろうか。だが、このブラウン管越しに見る“サッカー”は緑の芝が輝くスタジアムでプレーするトップレベルの選手たちばかりしか映っていない。

この写真集にはこういったトップレベルの選手たちのショットではなく、世界中の「そこら辺」で行われている“サッカー”がある。ボリビアの村でボールを追っている子どもや、アラブ首長国連邦(U.A.E)では、なぜかブラジャーだけを着けてプレーするおじさん、ミニスカートでドリブルをしているパリジェンヌもいれば、グレナダ(カリブ海上に浮かぶ島国)では横に止まっている戦車などお構いなしにリフティングに没頭しているお兄さんがいる。

世界各地の色様々な写真。しかし、それぞれサッカーをする環境は違えど、不思議な一体感がある。それはどの写真からもあふれ出てくる「サッカーが好きだ」という同一の感情。その思いは万国共通。だから人は今夏ドイツに集まる。



内田大三



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