スポーツという世界には、「する人」と「みる人」、そしてその間を取り持つ「伝える人」が存在する事を忘れてはなりません。今回は女性スポーツアナウンサーの草分け的存在、宮嶋泰子さんにインタビューさせて頂きました。いまや、スポーツニュースの花形である女性キャスターを、テレビ朝日入社以来担当してこられた宮嶋さん。現在はアナウンサーだけではなく、ディレクターとしても活躍していらっしゃいます。「選手」と「観客」、どちらの立場でもない場所からスポーツ界とはどのように見えるのでしょうか?
■‘見るスポーツ’には、全く興味は無かった
子供の頃から恐ろしくお転婆だったという宮嶋さん。中学・高校では軟式テニス部、大学ではワンダーフォーゲル系の山歩きのサークルに所属していた。そんな宮嶋さんがアナウンサーとしてスポーツに関っていく経過を辿ってくれた。

1977年4月にテレビ朝日にアナウンサーとして入社しました。
ちょうど私たちが入社する2ヶ月くらい前にモスクワオリンピックの契約をしたので、「じゃあ誰かオリンピックに行く人を育てよう」という空気がありました。それまでオリンピックのアナウンサーは男性しか行ってなくて、女性は誰も行っていない。でも、誰か新しい女性アナウンサーを連れて行こうということになって、私が選ばれたんですね。どうも他の番組では使いようがなかったみたいなんですよね(笑)。でも、私は、自分自身で身体を動かすことは大好きだったけれども、見るスポーツというものに対して、全く興味が無かったんです。
はっきり言って、私は「スポーツ担当になりなさい」って言われたときに泣きましたもの。なんでこんなものやらなきゃいけないのかと。それくらい当時としてはメジャーではなかったし、女性のアナウンサーが携わるものではなかったんです。私はアナウンサーになって何がやりたかったかっていうと、比較文化みたいな形で外報の仕事がしたかったので、本当にショックでした。
1980年のモスクワオリンピックまでは、毎日受験勉強みたいな感じで、新聞を切り抜いて、新しいことを勉強している感じでした。そのうちに、スポーツのことが徐々にわかってくると、この世界は一体何なの? って思うようになるわけですよ。
私は体育会とは無縁で普通に育ってきて、言いたいことはきちんと言うし、分からないことは分からないって言う。上意下達のように、上から命令された理不尽なことを耐え忍ぶなんていうことは、一度も教わったことがないわけですよ。そんな私にしたら理解できない人種がスポーツの世界にたくさんいるわけですね。
だから私は、スポーツ界の側の人から見れば異端児だったと思いますよ。ただ、反対に私から見ると不思議さ、言葉を変えれば新鮮さがあった。今までの人たちが当たり前だと思っていたことを、当たり前じゃないと思うから、インタビューの時にそのようなことを中心に聞いていったんです。そのインタビューが結構面白かったみたいで、1981年から夕方のスポーツキャスターを担当するようになって、インタビューが面白いってよく言われました。
■思いもよらぬところからスポーツに心が向いたっていう人は結構いる
現在、SOJのメンバーが在籍している早稲田大学スポーツ科学部非常勤講師を務める宮嶋さん。思いもよらないスポーツ界に入っていった、ご本人が語る業界事情

スポーツ産業関係のウェブを作っている人と話したんですけど、スポーツ産業はスポーツ関係の学生さんを求めてないんですよ。一般の学生さんを求めてるんです。だから、私がスポーツを担当してよかったのかもしれません。反対にいえば、スポーツをしてきた学生さんは他のところ、一般の企業に行って、そこでスポーツのところを開拓するとか、スポーツで培った体力や知力や能力を発揮したほうがいいんじゃないかっていう話をしていました。私もそう思うんですよ。
例えば、デパートに行っても、デパートの屋上で子供の遊び場をどうするのかっていうので、いろいろ開拓してる人がいる。一般の企業の中でそういうところを探していったほうがいいんじゃないかって。
スポーツ産業はすごくパイが少ないし、マーケットとしても小さいし。だからそこに無理していくことはなくて、ちがう所でスポーツのニーズを探していったほうがいいんじゃないかなって私は思いますね。
■現場で感じたことを、責任を持って伝えたい
宮嶋さんはアナウンサーである。しかし、取材も、映像も、原稿も、もちろんナレーションも全て自分でやってしまう。それは何故なのだろうか。

私の話に戻りますと、入社5、6年目くらいから自分で番組を作りだしたたんですよ。そのきっかけは、あるプロデューサーの一言でした。当時、バレーボールはテレビ朝日がほとんど放送していて、私はバレー担当だったんですね。「担当者が一番詳しいんだから、お前が番組を作ればいいじゃないか」ってそのプロデューサーは言ったんです。松中英忠さんといって、筑紫哲也さんをテレビに最初に引っ張り出した方なんですね。松中さんに言われて、最初に作ったのが30分ものでした。1分のニュースも編集したことがない人間がいきなり30分ものを作るなんて、まあ信じられないことをやってしまいました。
当時キー局のアナウンサーで、自分で取材してきて、構成を作って、編集マンはいるけど、自分がディレクターとして映像つないで、構成、原稿を全部書いて、自分でナレーション読む人なんていないですよ。私はそういう形を取ることができて、それはとても幸運なことだと思っています。
なぜ自分でやるのかというと、、それは現場に行って、感じたままを最後までオンエアで表現したいからなんです。他の人が入って作業しちゃうと、現場で感じたものがキチンとオンエアで表現しきれなくなります。自分の想像と違うものが出来てしまったりするので、自分の中で完結させたい、責任もって伝えたいっていう思いがあるんです。
最初に作ったのは30分のものでしたが、そのうち土日のスポーツコーナーで毎週3分のものを3、4年間作ったのかな。それが、今の自分の基礎だと思うんですね。3分の企画というのは、本当に起承転結をきっちりしないといけないので、番組制作の勉強になりました。今でも、1時間の番組を作るときにも随分役立っていますね。
■人間にとってスポーツとは何なのだろう、そして
スポーツとビジネスは相反しているという事実
企画を考えるとき、宮嶋さんの焦点は競技そのものよりも、競技をする人間に当たっているように感じる。事実そうなのだが、宮嶋さんが考える‘スポーツ’とは何か聞いた。

一番のテーマは「人間にとってスポーツは何なのか」っていうことですね。スポーツって何なのか、人間って何なのか、そんなことを考えながら、番組を作っているんですよ。だから、私は一応プロですから、その時の切り方によって、いろんな見せ方をしてきました。その時その時によって違うけれども、最終的に行き着くところは「人間にとってスポーツは何なのか」というところだと思います。
ですから、私はスポーツビジネスをやっている人にそこをキッチリ考えてもらいたい。ただお金儲けだけで、ビジネスにスポーツを利用しようと思っていると、今の食品工業みたいに子供たちに毒を盛っているような形になってしまうのです。
スポーツの語源っていうのはディスポルテと言われていますが、基本的には、今いる場所から離れて、自分を解放してリラックスさせるって言う意味ですよね。
それからビジネスっていうのは、ビジーからきているっていうことは皆さんご存知だと思います。ビジーっていうのは忙しい、忙しいっていうのは漢字だと、心を亡くすって書きますよね。
だから、ビジーとスポーツは、本当は最も遠いところにあるものなんですよね。これを一緒にしてスポーツビジネスにしようっていうときに、ものすごい無理が生じるわけです。だから、たくさんの弊害が生じている。
ただひとつ、ビジネスとスポーツには共通するものがあって、それはお金なんですよ。スポーツをやっている一部の人はお金が欲しい。それからビジネスそのものもお金が欲しい。だから、ビジネスでお金が欲しいっていうことと、スポーツの一部の人はお金が欲しいっていうことで、ぴったりニーズが合っちゃったわけで、スポーツビジネスっていうのが成り立ったわけですね。でもそのために、たくさんの歪みや弊害が生じてきているのも事実です。それが何かっていうのをみんなが、キチンと考えて欲しいっていうのが、私の授業の一番の目的なんですね。最初は良いように見えるかもしれないけれど、それが本当にいいことなのかって事なんですね。
やっぱり、手軽にスポーツができるような環境を整えてあげたいとか、トップアスリートの練習環境を整えてあげたいとか、どうすればよりスポーツが楽しめるだろうかというシステム作をしたいと言う気持ちもあるでしょうし。スポーツっていう文化をもっと他の人たちに知ってもらうために、何かをしていきたいっていうメディアにおける携わり方かもしれないし。少なくともスポーツを人間のために魅力あるものにしていこうという理念のようなものや、その振興に貢献したいっていう気持ちがないといけないと思います。
_次号へ続きます。
〜プロフィール〜
宮嶋泰子(みやじま やすこ)
1977年早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業
1977年より(株)テレビ朝日編成制作局アナウンス部勤務。1980年モスクワ五輪より2006年トリノ五輪までオリンピック取材は13回を数える。入社時よりスポーツを担当、女性スポーツアナウンサーの草分け的存在となる。1987年よりニュースステーションでリポーター兼ディレクターを担当、現在は報道ステーション、スーパーモーニングなど多数の番組で企画を作り、出演している。
現在テレビ朝日編成制作局アナウンス部部長待遇
テレビ以外の主なお仕事は
* 1995年〜日本体育協会 生涯スポーツ推進委員会委員
* 2001年〜神奈川県スポーツ振興委員会委員
* 2001年〜独立行政法人日本スポーツ振興センター・スポーツ振興基金助成審査委員会委員
* 2003年〜スポーツ少年団機関雑誌「スポーツジャスト」編集委員
* 2003年〜文部科学省 子どもの体力向上推進事業「手帳・カード等作成委員会委員」
* 2003年〜日本体育協会・総合型地域スポーツクラブ育成委員会委員
* 2006年〜日本自転車振興会 公益事業振興補助事業審査評価委員会委員
* 2006年〜NPO法人バレーボール・モントリオール会理事
* 2006年〜早稲田大学スポーツ科学部非常勤講師
<注:〜となって、終わりの年号がついていないものは現在も継続中の仕事です。>
編集:杉野 綾美
文字起こし:山城 謙、神谷 隆太