SEEDS-net vol.66
2006年12月4日発行
  

 2006年も残りわずかとなりました。皆さんいかがお過ごしでしょうか。思い起こせばスポーツイヤーと言えるほど、今年はスポーツイベントが盛り沢山だったように思います。しかし、盛り上がるのはその時だけで、 3 ヶ月もすれば忘れている、というようなことはありませんか?まだまだスポーツ文化が根付いているとは言えませんが、とはいってもだいぶスポーツが人々の生活に浸透してきているのも確かです。この調子で 2007 年も頑張っていきたいものですね!では今回のメルマガをどうぞ!

<もくじ>


++ ひとから見るスポーツ ++ 「Number」初代編集長・岡崎満義さんインタビュー
 今回の「人から見るスポーツ」は岡崎満義さん。言わずと知れた No.1 スポーツ総合誌『 Number 』の初代編集長です。私たちSOJも、メールマガジンという媒体でスポーツに関する記事・情報を発信していますが、その道の大先輩に話を伺ってきました。
  
 昭和 11 年 11 月 8 日・鳥取県に生まれた岡崎さん。杉とヒノキに囲まれ、育った幼少期。戦争が終わるまでは竹やりを持って、学校に通った少年時代。戦争が終わると、やはり野球だった。
  
 「すぐみんな始めましたけど、グローブやバットなんか無いんだから。どっかの家に一つだけ、昔のものがあって、みんなでそれを使いまわし。それに木を削ってバットにして、ボールも何かをくるくる巻いて作っていた。小学校でも、中学校でもやって、本当に野球一辺倒な生活だったね」
  
 中学時代は四番でピッチャー。県大会で 3 位まで引っ張っていけば、当然、甲子園を意識して進学を考えたが、当時は学区制であり、行く学校は決まっていた。それでも、無理やり、昔からの甲子園常連校である鳥取西高へ進学。野球を始めた頃からの「夢」のために。しかし、高校に入ると、いきなり故障に襲われ、今でも思い出す、あの夏の日…
  
 「中学の時から、ちょっと肩は痛かったけど、無理して投げていたら、肩が上がらなくなってしまって。病院で診てもらったら『もうこの肩じゃダメだ、今すぐ辞めたほうがいいよ。このままやっていたら、将来ひどい神経痛になって、大変だ』って脅されて、結局辞める覚悟を決めた。あれが私の人生で最大の挫折だったね。とにかく甲子園に出ることと、大学は早稲田に入って、早慶戦に出る、っていうことしか頭に無かった。あの日は暑い夏の日で、ちょうど終戦の 8 月 15 日のような、青空でかんかん照りの日に、『お前の肩はもうダメだ』と言われたんだから。病院の外に出たら、ホントに目がくらくらするくらいで、雲母がキラキラキラって光るような感じでね。それくらい暑い日の光も覚えているよね」
  
 16 歳でクルッと変わってしまった人生設計。茫然自失の中、生涯乃恩師と慕う世界史の香川正晴先生と運命の出会いを果たす。当時から本をあまり読まない高校生に、ホームルームの時間に小説を読んで聞かせ、授業の半分はドストエフスキーの話をする、という破天荒な先生だった。その先生の「熱さ」が、野球が出来なくなった喪失感を忘れさせ、生きていく活力を岡崎さんに与えていった。
 

その先生にも勧められ、大学は一浪した後、京大に進学し、「鯨をいっぱい食わせてやる」という時代を表すようなボート部への勧誘をされたり、勢いでギリシャ哲学の田中美知太郎先生のゼミに入るものの、田中先生に本気で心配されるほどの劣等生になったりと、面白いエピソードが多い。劣等生だったのは、ギリシャ哲学科の中だけであったようで、志望していた出版社に就職を決め、文藝春秋での仕事が始まる。
  
 「3 月 10 日にはもう、入社しました。昔は社員研修なんて無いんですよ。たまたま月刊文芸春秋の端の席が空いてたから、そこに座っていてね。座っていたら『○○先生のところに行って、原稿取って来い!』と言われたり、あと、当時は“校正をする人”という専門職がいなかったから、みんな編集者でやったりね。出張校正という、 2 日か 3 日で凸版印刷で済ませる仕事。そこの手伝いに行って、校正を覚えるわけ。原稿取りと校正の手伝いが社員研修。最初の 3 ヶ月はそれだけだった」
  
 訳も分からず仕事に明け暮れ、そして、週刊文春に放り込まれてからは、 3 年置きくらいに人事異動を繰り返した。それは、後に文藝春秋の社長になる池島信平氏の「オールラウンドのプレイヤーを作らなきゃいかん」という方針によるものだった。他社といえば、「新潮は 10 年も 15 年も一回張り付いたら、変わらない」(岡崎さん)らしく、これには岡崎さんの運を感じられる。 1999 年の退社までには『週刊文春』『月刊文春』『 Number 』『オール読物』という 4 誌に関わる。特別、スポーツを中心に書いていたわけではないが、他の人と比べるとスポーツの割合は高かったようだ。そして、意外そうで意外ではなかったスポーツ総合誌の創刊が決まる。しかし、そこにはやはり苦悩が…
  
 「私が編集長をやっていた時に、デスクをやっていた松尾君がジャーナリズムを学ぶために留学をしました。『アメリカの雑誌や出版界の模様を見ているとスポーツ雑誌が増えている。アドベンチャーまで含めて、やがて日本もそうなるのではないか』と留学レポートに書きましてね。それを読んだ社長が『じゃあスポーツをやってみたらどうだ』という一言で決まりました。実際に『 Number 』が出された時は『なんで文春がスポーツ雑誌出したの?』ってみんなから言われていたんだけど、これは伝統として、菊池寛以来スポーツが好きだったんだよね。
  
 ちょうどソウルオリンピックの昭和 63 年に私が、文春に載ったスポーツの記事を年ごとにまとめて、基礎資料みたいな形にして『文芸春秋に見るスポーツ昭和史』というのを全三巻作ってね。それを見ても、本当に戦前からスポーツの記事を結構取り上げていた。でも、それまでには『サッカーマガジン』とか『陸上競技マガジン』とか個別のモノは結構あったけど、“総合誌”と名乗って、まとめたのは無かったからね。『スポーツは盛り上がるからやれ』ということだったけど、どのスポーツだって題材にしてもイイというのは分かりますよ。ゴルフだって、サッカーだって、何でもイイ。でも、『たくさん取り上げたからって、総合誌として良いのか? スポーツ総合誌ってなんだ? 』というのが僕の一番の課題でしたね。何か基本的なポリシーが無いと、総合誌はバラバラになりそう。そういうことを考えていたんだけど、なかなか答えが見つからなくてね…」

  
 その課題に対する答えを導いてくれたのは、あの偉大な方だった。それは小林秀雄氏。小林氏は日本における文芸批評を確立した人物であり、評論の神様とも呼ばれ、東京オリンピックの時に『依田郁子 80 メートルの青春』という、元女子 80 mハードル日本記録保持者である依田選手のコーチ・吉岡隆徳さんの練習日記をもとにして、岡崎さんが文章にしたものを徹底的に批判した。のちに、この指摘が、岡崎さんの文章の規範となったのである。また、私生活でも親交を深め、スポーツのことから、絵画のことから何でも、話していただいたありがたい存在だった。このような間柄の小林氏からも、岡崎さんは、いや、『 Number 』は多大な影響を与えられたのである。
 

記念すべき創刊号

 「小林さんの本を読んでいると、スポーツのエッセイも書いていますよね。『私の人生観』という講演をもとにした文章のなかに、『ロンドン五輪の映画を見た』という良い話がありました。女子の砲丸投げの選手のことを書いているんだよね。そのなかに、『私たちは戦う。しかし、征服はしない』という言葉がありまして。『選手たちは一生懸命戦っている。それは、自分の邪念と戦っている。相手を征服はしない、自分と戦うのに精一杯だ。征服する、というのは見物人の方がそうなるのではないか。戦争が始まったとしたら、見物人たちが、のこのこ出かけて、他の人間を征服するのではないか。でも、選手はそうではない。戦うが、征服はしない』という言葉が印象に残っているね。
  
 スポーツにはイロイロなものがあって、見物人は純粋じゃなくて、邪念とかエンターテイメントばかりに走る。だけど、不純なものが入りやすい見物人といえども、スポーツ選手を見て、最終的に見たい、感じたいのは“道義”。それを僕は“ヒューマニズム”と言い換えました。そういうところに『 Number 』の、スポーツ総合雑誌としての理念が行き着くのじゃないかな。もちろん勝敗を競って、一生懸命さをみんなは追いかけるんだけど、最後の最後に行き着くのはスポーツを通して人間の“道義”だと思うんですよ。
  
 それで『あらゆるスポーツを通して、人間の“道義”が一番見えてくる雑誌を作ればいいんじゃないか』と考えた。それが言葉での理念。この理念の上に、『愛すべき神は細部に宿る』というアビ・ワールブルク(ドイツ美術史家)の言葉をちょうど思い出したんだ。その言葉に導かれて、『どういう記事でどういう形に表れるのか? 』というようなことを具体化していこうと思ってね。それから、創刊に向けて本格的に準備をやり始めました」

  
 次号では、『 Number 』大成功の秘訣から、スポーツジャーナリスト・ライターとしての心積もりなどを掲載します! お楽しみに☆☆☆
  
  
 【プロフィール】
 岡崎満義(おかざき みつよし)
 ジャーナリスト
 元文藝春秋取締役/「 Sports Graphic Number 」初代編集長
  
 1936 年鳥取県生まれ。
 1960 年京都大学文学部哲学科卒業。同年、株式会社文藝春秋入社。
 1979 年新雑誌編集長(部長)となり、スポーツ専門誌「 Sports Graphic Number 」初代編集長として活躍。
 1982 年には「文藝春秋」第 23 代編集長に就任。
 1990 年編集委員長兼広告企画センター局長
 1993 年取締役(編集委員長兼企画センター局長兼社長室長)
 1995 年取締役(編集委員室総局長・編集委員長・企画センター局長)
 1996 年取締役(編集総局長兼編集委員長)などを歴任
 1999 年にリタイアするが、執筆・講演活動等にて現在も第一線で活躍する。
 2000 年度より、ミズノ・スポーツライター賞選考委員長。
  
 ■著書「長島茂雄はユニフォームを着たターザンである」(大和書房)「豪球列伝」「豪打列伝」「助っ人列伝」「暴れん坊列伝」「巧守巧走列伝」「魔球列伝」(文春ビジュアル文庫)「『文藝春秋』にみるスポーツ昭和史」全 3 巻「思い出の作家たち」 1 ・ 2  他多数
(以上、スポーツアドバンテージ・ホームページより抜粋)


文字起こし・編集 西山 裕貴

+ マイレポート +  環境とフリーペーパーとわたし
 思い返せばしばらく前のこと(夏休み前)になるけれど、フリーペーパー※のコンテンツが決まったとき、“環境”といっても 漠然としたイメージしか思い浮かばなかったフリーペーパー班では、いくつものテーマに分けてそれぞれが詳しく調べてみよう!!そして、そこから見えてきたものを形にしていこう!!という方法で進めていくことにした。
  
 その時決まった私の担当は『 CSR について』。企業という存在と私との接点がまだ少ないこともあり、 CSR に対して、私は当初≪何か特別な取り組み≫のように感じていたのを覚えている。しかし、調べていくうちに、共感できる部分がすごく多かったり、こういう考え方もあるのかぁと感心させられたり、ほんのこれっぽっちの簡単な取り組みでも社会に貢献していることになるのかと励まされたような気分になったり…そういった感情の揺れ動きがたくさんあった。そしてそれとともに企業に対するどこかとっつきにくい硬いイメージが、社会とのかかわりを大事にしようとする開放的なイメージへと変わってきたのは間違いない。企業の数は全部知るのが不可能なほどたくさんたくさんあるわけで、もちろんその中にはいろいろな会社があると思うが、どの企業にも共通しているのは、『社会あっての企業(会社)』という認識を持っていることだ。これは至極当然であるが、この認識が CSR の原点になっているということに今後の CSR 活動のさらなる拡がりを期待できると私は思うのだ。
 
 このようにして、私は CSR から“環境”へとアプローチをかけた。“環境”の全貌を捉えられるようになるのはいつのことか推定できないくらいに、相手の懐はいい方向へも悪い方向へも深いと思うけれど、これをきっかけとして上手に向き合っていけたら、生活の彩がまた少し鮮やかになるだろうと私は確信している。
  
 昨年に引き続き、今年も SOJ ではスポーツと絡めた FP を発行しました!!テーマは『スポーツ×環境』です。今回は 2 号にわたる発行で内容量も多くなりました。第 1 号は 10 月末、第2号は 11 月 25 日に完成しました。機会があれば是非ご一読下さい。


渡辺 洵子

+ マイレポート + 早明戦
   人々が 1 年の締めくくりを考え始める 12 月初旬、ラグビーファンの注目は 1 点に集中する。
 
 ラグビー早明戦。
 
 ラグビーファンでなくとも、聞いたことがあるであろう日本ラグビー界のビッグイベント。10数年前のように徹夜で並ばなければチケットは取れないということは最近ではないが、 国立競技場を埋めるほどの観衆を集める大試合であるのは今でも変わりはない。勝負どころでのワセダ・メイジの大コール合戦は観客を興奮の渦に巻き込み、テレビを通してでさえその迫力を十二分に伝える。
 
 両校の戦いが日本ラグビーの頂点だった昔はいざしらず、国内では社会人リーグが大学を上回るレベルの戦いをするようになり、海外の超人のごときプレーをテレビで見ることも難しくはなくなっている。にも関わらず、人々が早明戦に熱狂する理由はなぜだろう。 それはこの両校の戦いがラグビーにとって最も重要なものを表しているからではないだろうか。
 

 “タテの明治、ヨコの早稲田”という言葉に象徴されるように、両校の戦い方は対象的であった。体格に恵まれない早稲田は、いかに体の大きな相手と渡り合うかという研究を行ない、バックスへの速い展開などを編み出した。そうした研究は日本ラグビーにとっても必要不可欠なことであり、日本代表の戦い方のベースともなった。
 
 一方の明治は故北島監督の教えである“前へ”を合言葉に、スクラム・モールを押し込むフォワード勝負を徹底していた。この戦い方は日本代表には合わないと取れるかもしれない。しかしラグビーにおいて“前へ”の気持ちを持たずに勝つのは不可能である。どんなに相手が強大であろうと前へ。この精神こそが明治ラグビーを支えるものである。そしてこの 2 つは片方のものだけではない。早稲田のフォワードの明治の重量フォワードにひるまない前進、明治のバックスの早稲田快速バックスをいかに止めるか、抜くかの研究、これを行なった方が勝利に近づいたに違いない。互いに影響されることによって、さらなるレベルアップがあったことは疑いようがない。飽くなき研究と、折れることなき精神。戦い方ではなく、この2つの戦いの頂点が早明戦の真髄だったのではないだろうか。
 

 現在、両校の戦い方は様変わりしている。早稲田が力強くモールを押し込み、明治が華麗なパス回しからトライをとることも見慣れた光景となっている。しかし、その真髄は変わっていない。早稲田は如何にして巨大な相手に勝つかの研究を続け、社会人のトップリーグに勝つという快挙を成し遂げた。明治も“前へ”の精神を忘れることはない。
 
 “伝統の早明戦”と言われるように、この1戦が始まったのは 1923 年のこと。以来 83 年、両校は鎬を削ってきた。伝統とは、ただ長く続いているというだけではない。両校の真髄が変わらないからこそ、プレイヤーは赤黒・紫紺両校ジャージの誇りを掛けて戦い、観客はそれに魅了されつづける。こうした戦いの積み重ねは価値を高め、人々の記憶に残るのである。
 
 今、日本ラグビー界は転換期に立っている。今までの大学重視の姿勢を変えなければ、世界のラグビーから取り残されてしまう。有望な選手が大学へ行かなくなるようになり 大学ラグビーのレベルも落ちるかもしれない。しかし、問題は選手のレベルではない。両校が日本ラグビー界に根付かせてきた、頭と心の鍛錬の追求という真髄。 それが受け継がれる限り、早明戦が色あせることはないに違いない。
 

神谷 隆太

+ Shino's Works + 優勝カップが浦和にやってきたヤーヤーヤー!!
 それはまだ僕が終着点の浦和美園駅まで二つの乗り換えを挟んだ駅での光景である。
 
  アウターの中からチラつく赤いユニフォーム、巻かれた赤いマフラー、背負われた赤いバッグ、爪に塗られた赤いマニキュア 、そのどれもが僕に浦和レッズを想起させるには十分であった。
 
  中には浦和レッズとは関係ない赤いジャージやスポーツとは 凡そ 関係ないものまであったが、皆が皆とりあえずの“赤”を身に纏う。老若男女を問わない。
 
  そして終着地点へと近付くにつれ、大きな赤い旗や、ブレザーや学ランの中に隠していた赤いユニフォームを露わにする学生たちによって、電車の中の赤い濃度が高まっていく。

続きを読む…

もっとこんなこと載せて欲しい!とかわたしの情報も発信したい!という方は
mail@soj-net.comまで。

また、メルマガの感想や、最近のスポーツについて感じることなどなど
なんでもSEEDS net BBSに書き込んでください。
ここからスポーツの輪を広げましょう。

もっとSOJメンバーの行動を知りたい!という方、
SOJのHPにSOJ日記があります。
ほぼ毎日更新されているのでぜひ見に来てください。

--------------------------------------------------------------------------------- 私たちSOJ発行のフリーペーパー"TOKYO×SPORTS"のダウンロードがこちらから出来ます。ぜひダウンロードして見てみてください!
そして、アンケートを実施しています。ぜひともご協力をお願いいたします。

TOKYO×SPORTS
ダウンロード(PDF形式:74.4MB)
アンケート

(注)このフリーペーパーの著作権は全てSports Of Japan(SOJ)に帰属します。 SOJの許可なしに複製・転載・配布・使用・掲載することを禁じます。

発行:SOJ(Sports Of Japan)
お問い合わせ:mail@soj-net.com